塩瀬と和菓子の物語
甘い餡と饅頭の誕生
塩瀬初代の林浄因は、京都建仁寺三五世龍山徳見の中国留学帰国に伴い 一三四九年に中国より来日しました。中国では肉の入った饅頭づくりが得意だった浄因は肉が食べられない僧侶の為に小豆を甘葛煎(あまづらせん)という植物から抽出した甘味で煮詰め、日本で初めて甘い小豆餡と、餡が入った饅頭を創作しました。
司馬遼太郎著「饅頭伝来記」には間食・おやつの習慣がない子供たちが浄因の饅頭をほおばり「おっそろしくうめぇ」と食べると共に、その評判が広まる様子が描かれます。
お祝い事に。和菓子を贈る文化の始め
当時としては画期的な浄因の饅頭は、寺院に集う上流階級の人々の心を次々と射止め、やがて龍山禅師の仲介によって宮中に献上するに至りました。その功績が認められ、後村上天皇より宮中の女性との結婚を許されます。その結婚の際、紅白の饅頭を創作し配ったことが、今日祝事の際に紅白饅頭を贈る文化、ひいてはお祝い事に引き出物としてお菓子を贈る文化を形作っていきました。
献上する。祈願する。思いを込める
浄因子孫の林紹絆は中国で製菓を研究し大和芋を用いた塩瀬饅頭のベースとなる薯蕷饅頭を開発。帰国後応仁の乱を避け三河の地塩瀬村に疎開し、これより塩瀬と名乗ります。足利義政公は自分の時代に塩瀬の饅頭が世に出されたことを誇りとし直筆の「日本第一番饅頭所林氏塩瀬」の看板を下賜しました。
その後歴代の将軍の催事に重用され、徳川家康公は戦いにおいて塩瀬の本饅頭を兜の上に供え軍神に戦勝を祈願しました。
シンプルな饅頭の中には送り手の様々な思いが込められています。
千利休とともに。お茶菓子として
一族の林宗味は秀吉公の寵愛を受け、千利休に茶を学び、利休の孫娘を妻にした茶人でした。宗味は茶器を包める大きさの紫色の塩瀬袱紗を開発し販売しました。この袱紗が今日の袱紗、塩瀬織の原型となり、和菓子と茶の湯とを強く結びつける出来事となりました。
茶の湯の盛り上がりは茶菓子の発達を促進するとともに、塩瀬には多くの注文が舞い込みました。通な茶人を唸らせる饅頭、和菓子がお茶菓子として確立し、今日まで続く塩瀬のお茶菓子としての礎となっています。
時代とともに。その形を変える
それまで上流階級のたしなみであった和菓子は、砂糖が貿易で手に入るようになった江戸時代にその文化が花開き、多くの和菓子が創られます。家康公とゆかりが深い塩瀬は江戸幕府設立時連れられ江戸に移り、早くから江戸っ子達の舌を唸らせてきました。名物番付では堂々の和菓子部門一位。世の中の人が争って塩瀬の饅頭を買う描写があります。
塩瀬五座衛門に代表されるように当時の江戸塩瀬は菓子見本帳を残し、上生菓子や饅頭、羊羹等、幕府御用として多くの和菓子を世に発信してきました。
伝統を未来へつなぐ
明治時代、塩瀬は菓子商として初めて宮内省御用を命じられ、有楽町の地で商いをしました。当主の渡辺亀次郎はその腕前から菓子の神様と呼ばれ、明治陛下、照憲皇太后と親睦が深く、宮内省大膳課によく召され祝宴のアレンジ等を任されました。
戦時中は戦地で亡くなった方への陛下からのお悔やみとして御紋菓の御用を承り、戦後は「東都のれん会」の設立に尽力し、日本の老舗として伝統を次世代へ伝えていくとともに、菓子文化の発展に尽力しました。
伝統の味を守るだけではない挑戦
塩瀬は最古の菓子司として、日本人とお菓子とのふれあいを見つめてまいりました。様々な時代を超え、様々な思いを餡に込めて。
ある時はおやつ、ある時は献上品、名物として。時代によって塩瀬の和菓子はその形を変えてきました。
人の目と舌を通じ、なによりも人の心を和ませたいと、今日も挑戦し続けています。
その挑戦を振り返ったとき、続いてきたその道が伝統となっていきます。