4.饅頭屋町の合塔と塩瀬の歴史

【中世 室町〜桃山】饅頭は広がる
4.饅頭屋町の合塔と塩瀬の歴史

饅頭屋町の町衆の方々が建てた林家一族の足跡の合塔が今でも建仁寺両足院に残されています。これを確認することでも林一族の足跡を追うことができます。

 

原文を訳すと以下のようになります。(原文は下記に記します)

 

「饅頭屋町の由来と合塔建立について。

宋の時代、林和靖の末裔林浄因が、建仁寺竜山徳見禅師の帰朝に従って1341年(正しくは園太歴より1349年)に来日した。奈良の林小路に住み饅頭を作った。これが我が国の饅頭の始祖にて、塩瀬の始祖となった。饅頭はやがて宮中に献上されるようになり、宮中の天皇の寵愛を受け、宮女を賜り、男子二人女子の子供が生まれた。

竜山徳見禅師が延文三年(1358年)に亡くなり、浄因は望郷の念に駆られ翌年帰国してしまったが残された妻子は饅頭屋の家業を続けた。浄因の子供の一人惟天盛祐は京都に移り、これより林家は南家と北家に分かれた。明応の頃、惟天の孫、林宗二は古今文学を極め著作が多く、代表作の節用集(現代でいう国語辞典のようなもの)は学界に多大な貢献をした。世に饅頭屋本と言われている。

浄因の孫の紹絆は元に留学し、製菓の製法を学んで帰朝後、三河国設楽郡塩瀬村に住み、是より姓を塩瀬と改めた。

天正十六年(1588)2月の記録によれば、京都下京烏丸三条下ル町に、一族の宗味が代々饅頭業を営んでいることに起因して町名を饅頭屋町と記し町内に貸家を有していた。

宗味は茶事を愛し、後に千利休の孫女をめとり、家業の饅頭作りの傍らで袱紗を製して商いを行った。現在の塩瀬袱紗と呼ばれるものであり、豊太閣秀吉に、寵遇を受け、また宮中に召された後水尾院より和歌を賜り、また塩瀬山城大橡と名乗ることを許された。」

 

後に京都塩瀬は最後の当主塩瀬九郎右衛門がなくなって以後、饅頭屋町の町衆の方々は、墓守と毎年の法要を営むことを町内で申し合わせ決め、長年にわたりその決め事を守ってきてくださったのでした。その法要記録が書かれた古文書も残されております。並々ならぬ人情の厚さを感じるとともに、非常にありがたいことでした。

 

原文

「饅頭屋町祠堂ノ由来卜町合塔建立ノ趣意 元朝ノ頃宋ノ林和靖ノ裔林浮因洛東建仁寺両足院開基龍山徳見禅師ヨリ帰朝二随従シテ暦応四年(正しくは園太歴より1349年)日本二来リ世々南都二住ス其地名ヲ世呼テ林小路卜称ス 
浮因ハ林和靖房ノ傍ラニアリシ庵蔓樹ノ実二擬シテ二饅頭ヲ造ル 我国斯業ノ始祖ニシテ塩瀬家ノ鼻祖ナリ 嘗テ饅頭ヲ宮中二献セシニ□感斜ナラズ屡々宮中二召サレ寵遇浅カラズ宮女ヲ賜ヒテ之配セシメ給フ男子二人女子二人ヲ挙ク 
龍山禅師延文三年示寂ノ後望郷ノ情動キ翌四年七月十五日妻子ヲ遺シ元朝二帰ル妻子ハ家業ヲ続ケ弘ク世二賞用セラル家号ヲ饅頭屋卜称ス浮因ノ次子惟天盛祐京都二移ル是ヨリ林家南北二分レヌ
明応ノ頃惟天ノ孫宗二林逸五山細徒ノ間二遊ヒテ古今ノ文事ヲ極メ著作多シ 
中ニモ節用集ハ学界二多大ノ貢献ヲナセリ世二饅頭屋本卜云フ 
又林逸抄五十四巻ヲ著シ世ニ古今奈良伝授卜云フ 今二両足院二蔵ス 浄因
孫紹絆ハ元二遊ヒ製菓ノ法ヲ学ヒ帰朝後三河国設楽郡塩瀬村二住ス是ヨリ姓ヲ塩瀬卜改ム
天正十六年(1588)二月ノ記録ニヨレバ京都下京烏丸三条下ル町二其子孫宗味ハ住シ町名モ饅頭屋町卜記セラル代々饅頭業ヲ営ミ居ルコトニ起因シテ町名トナリシナラン町内二貸家ヲ有シ土地総計新間ニテ約百坪アリ
宗味茶事ヲ愛シ後二千利休ノ孫女ヲ姿リ家業餞頭ノ傍茶吊ヲ製シ商ヒヌ 今
日行ハルこ塩瀬茶吊ノ濫態ナリ豊太閣二寵遇ヲ受ケヌ後水尾院東福門院明正院後光明院後西院ノ各御宇常二宮中二召サル後水尾院ヨリハ御哀翰並二御製ノ和歌ヲモ賜リ塩瀬山城大橡卜称スルコトヲ許サル」

 

 

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