2.薯蕷饅頭の誕生と足利義政の看板

【中世 室町〜桃山】饅頭は広がる
2.薯蕷饅頭の誕生と足利義政の看板

蒸したての薯蕷饅頭 もっちりとお餅のような食感が格別です。

 

浄因子孫の林紹絆(しょうはん)は浄因来日から百三四十年を経たころの5世の孫だと言われ、行動的かつ企業意欲も旺盛な人物とされています。饅頭研究の為、数年間を中国に留学、帰国してから京都に進出しました。

 

清代の上流社会の生活を描いた本『紅楼夢』(曹雪芹著)には、「山薬樵(シャンヤオコウ)」(山薬饅頭ともいう。棗の餡入りの”薯預饅頭“である)の名が見られ、薯蕷饅頭は当時貴族の食べ物であり、薯蕷(大和芋)を山薬(サンヤオ)と呼んでいたことがわかります。紹絆は宮廷や上流社会でのみ食されていた「薯蕷饅頭」の製法を習得して日本に戻り、これが現在の塩瀬饅頭のもとになりました。現在、色々な文献で薬饅頭(やくまんじゅう)が小麦や膨らし粉で作られているという扱いがありますが、これは間違いで、薯蕷で作られたものを薬饅頭というのです。

 

またこの時、京都では応仁の乱があり、その動乱を避け、当時親交があった三河の地の武将富永氏の助けもあって、三河国の塩瀬村に疎開をします。両足院の家系図には浄因三代目の心地浄印法眼の妻が富永氏の息女と書かれており、当時からつながりがあったことが伺えます。この際豪族塩瀬氏より塩瀬という名前を頂戴したと両足院の古文書に記載があります。

 

京都烏丸通三条下る「饅頭屋町」で薯蕷饅頭の商売をした紹絆ですが、この塩瀬饅頭が後土御門天皇、足利義政公の目に留まることになります。この時の出来事を饅頭博物誌では以下のように記しています。

 

(饅頭博物誌より)

ところで足利義政の妻日野富子が、日本悪婦伝の筆頭に挙げられるほどの猛婦で実子義尚が生まれてから夫婦間の空気が険悪になったのは史上有名な話だが、「それ以前は、そうでもなかった」と、桑田忠親博士は『日本史千一夜』で次の挿話を紹介している。

夫婦がまだ若い頃、ある年の春、将軍義政は富子に多くの侍女を引きつれさせ、京都の町はずれの華頂山で花見をし、爛漫と咲き誇る桜花の下で連歌の会を催したことがあります。そのとき義政は「咲きみちて花よりほかの色もなし」という発句を吟じました。

その翌々日、一行は大原野で野遊びをしていますが、そのときの富子と女中たちの衣裳や調度品はじつに豪奢なものであって、弁当に使った箸でさえも黄金だったということです。菓子を百種類も用意したといいます。

越前一国の租税をつかったという花見だが、烏丸の塩瀬と名の通っていた紹絆の店へ、おそらくこのような時には大口の注文があって、店主は全力を傾けて饅頭を調製したのだろう。

義政が"日本第一番饅頭所林氏塩瀬と欅の大看板に直筆して与えたというのも、また後土御門天皇が皇后のお印「五七の桐」をトレードマークに許されたというのも、この紹絆が店舗経営のときだったと一説はいう。」

 

また饅頭博物誌には義政公と太閤秀吉と塩瀬饅頭についてこのような記載もあります。

 

「後年の話だが、天正一七年(1589)の春、緊楽第に諸大名を招いた席上、振舞った煉羊羮を自慢して太閤秀吉は云った。
「慈照院公の世に塩瀬饅頭を出されしが、予が天下には煉羊羮が現われたるわ」慈照院とは室町幕府第八代の将軍義政。饅頭も羊羮もまだ庶民から遠くにあって、権力者だけのものだったが、わが治世に饅頭が出たことを大いに誇りとしたらしい。」

 

この看板は代々塩瀬の本家に伝わっていましたが、明治の関東大震災、第二次世界大戦の戦火により残念ながら実物は消失してしまいました。しかしながら明治塩瀬のパンフレットに看板の大きさ、そして義政公直筆の書体を研究されていた書道家の方が写真で記録に残してくださっていたことから、今日復刻することができ、現在塩瀬のトレードマークとして用いられています。

 

明治時代塩瀬のパンフレット

 

義政公の助けもあり、この後塩瀬饅頭は日本の和菓子界に多大な影響を及ぼしていくのです。

 

 

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