4.徳川家康と本饅頭、増上寺の黒本尊

【近世 江戸】和菓子革命
4.徳川家康と本饅頭、増上寺の黒本尊

現在の増上寺

江戸時代後期、文化・文政の頃に、塩瀬五左衛門という当主がいました。塩瀬に養子に入り、当主となって大いに繁盛させた人物でした。詳しくは他のストーリーで述べますが、彼が記した『林氏塩瀬山城伝来記』(1838年)によると、江戸に下った塩瀬は、徳川将軍家御用達であるとともに、その菩提寺である芝・増上寺の黒本尊(くろほんぞん)の御用を承っていたことがわかります。

 

黒本尊とは、もと三州桑子明眼寺にあった恵心(えしん)作と伝えられる二尺六寸の如来像のことで、駿府城時代からの家康の念持仏であり、家康が出陣の際はともに戦場へ赴いたと伝えられています。家康の幾多の勝利は黒本尊のご加護があったからと、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、現在まで広く信仰を集めてきました。
「十方庵遊歴雑記」(1814)によれば塩瀬の本饅頭を家康が戦いの出陣の際に兜に盛って黒本尊に供え、勝利を祈願したとされるエピソードがあります。この饅頭は「兜饅頭」とも呼ばれ、現在の塩瀬でも今日まで愛され続ける逸品となりました。

 

その後、黒本尊は家康が三州桑子明眠寺から申し受け江戸城に移し、奉祀してあったものが、二代秀忠の時代に増上寺に納められました。

 

そして、三代家光の時代に、社殿を建てて祀るようになったのでした。昔は金色に輝いていましたが、長年香煙にいぶされて黒くなったところから「黒本尊」と称され、その黒ずみは、悪事災難を一身に引き受け、厄難から人々を救うという仏様であるとされ、増上寺ではこれを最も尊崇していたと言います。

 

この黒本尊に供える大饅頭を、塩瀬は将軍家より用命されていたのです。これがきっかけとなって、江戸において塩瀬鰻頭が寺院の山菓子として多く用いられるようになりました。

 

山菓子というのは、寺院に供える饅頭のことでした。寺にはそれぞれ、「○○山△△寺」という山号があります。たとえば、浅草の浅草寺は「金龍山浅草寺」というのが正式名称であり、増上寺は「三縁山広度院増上寺」が正式名称です。そこで、江戸時代、寺で用いる菓子の事を山に供えるという意味合いで「山菓子」といったのでした。山菓子といえば饅頭と相場が決まっていて、現在でも仏事に饅頭を使うのは塩瀬の饅頭を備えることの名残です。

 

 

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